2006-10-31

広域研修レポートその3 "closing the gap"編

広域研修で自分が実施したパートの一つに「ギャップを埋める」というセッションがあった。




隊員とカウンターパートが別々のグループに別れて互いに感じる
“問題点”と“期待すること”を討論してもらう。
その後に、隊員とカウンターパート混成のグループに別れてロールプレイをしてもらう。
例えばザンビアの人に協力隊の役を演じてもらう。
"言葉も通じない。家族にも会えない。仕事を丸投げ去れる。"

例えば日本人に校長先生の役を演じてもらう
"英語を話せない隊員に授業を任せられるか?
頻繁に首都に行く隊員とどうコミュニケートするか?
本当にお金がない場合どうすべきか?"

そういう相手の困難な状況をリアルに感じてもらうことが狙いだ。
最後にお互いに感じているギャップを討論してもらった。

一番に感じたのはやはり“コミュニケーション”。
言葉の壁は深刻だ。
そして、言葉以外のコミュニケーションにも相当にギャップがあることもわかった。

アフリカ流のコミュニケーションについていこうとする姿勢がやはり我々には足りない。

日本人の感覚から言うと彼らはまともなミーティングもせずに情報共有しないから
物事が進まないんだと思うけれど、
彼らは彼らのやりかたで俺らが思っている以上に情報共有している。

だからこそ日本人の情報などは村中が知っていたりする。
そのネットワークに我々が入り込んで仕事の情報も共有してもらうことが必要なのだ。

もちろん彼らから我々の側に歩み寄る姿勢も必要だ。
その当たりの討論にまで踏み込める時間がなかったのは少々残念。
でも、個人的にはやって良かったセッションだった。















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2006-10-30

広域研修レポートその2 "個は全体を代表する"編

広域研修。予想通り何人かのカウンターパートが不満を吐き始めた。
そして、予想通り夜遊びに行く人が現れた。そして朝方帰ってくる。
遅刻する人もいれば、研修を休む人もでてきた。



俺らはそうとも知らずに本当に体調を崩していると思い病院の手配などで
駆け回っていたのだが、夕方になると元気そうに現れてまた夜の街に消えて
いったのを見て「勝手にしやがれ」と思った。

もちろん、まじめに研修に参加している人もたくさんいる。
ワイナイナもその一人。
そんなカウンターパートを連れてきた隊員はやはりご機嫌でどんどん関係も良くなっていく。

だけど、遊びまくって研修をさぼるようなカウンターパートを連れてきた隊員はどうだろう。

遅刻をして注意をすると
「アフリカでは名指しで注意するのは失礼だ!責任者呼べ!」と逆ギレする人もいる。

そんな彼らのために2年という時間を費やす隊員の気持ちを考えると悲しくなる。

広域研修の最大の効果はカウンターパートとの関係が深まることだと思う。
それはプラスとマイナスの効果がある。

“こいつと頑張ろう”と思える場合と
“こいつとは働きたくない”と思える場合。

いずれにしても任国で仕事をしているだけでは感じられない感情が湧いてくる。
それとどうつき合うかは彼ら次第だけど。

そして、もう一つ感じたこと。
どれだけ規模が小さかろうと、こうした国際会議では自分がその国を代表しているということ。

例えばタンザニアの人が研修をさぼったとする。
すると、そこの参加者は「タンザニア人はすぐさぼる民族性だ」と思ってしまう。

これはおそろしい。
何も会議に限ったことではない。
例えば俺がケニアでケニア人にだまされて、コンピューターを盗まれてその犯人を
殴りつけたとする。

それを見ていた人にはそんな事情は関係ない。
“日本人はケニア人を殴る民族だ”と思うのだ。

そんな恐ろしさを肌で感じることのできた広域研修でした。








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2006-10-29

広域研修レポート その1"オーガナイザー"編





JICAの広域研修という制度を使ってケニアでコンピュータの研修を実施した。
参加者はマラウィ、ザンビア、ジンバブウェ、タンザニア、ケニア、ガーナ、
ボツワナから協力隊とそのカウンターパート。
10日間みっちりとコンピューターネットワークとプロジェクトマネージメントを中心に
研修を進めていった。

研修内容はワイナイナ(俺の新しい同僚)にはレベルが高過ぎるなと思ったんだけど
せっかくだから連れていくことになった。

JICA本部の手続きのミスにより承認が出たのが研修実施の1カ月ほど前。
その時の俺は配属変更やらでそれどころではなくて全く関与していなかった。
研修の数日前にナイロビに行き主催者達と合流した。

広域研修は隊員が主催して行うので会場の設定から備品の準備、研修内容の精査、
準備そして講師まで隊員で行うのである。
途上国でそれをやるのは口で言うほど簡単なことではない。

彼らは「準備終んないよー」って言ってる割には俺に仕事を振るそぶりもないので俺は
“大丈夫なんだろ”と勝手に思って自分のパートだけの準備に徹していた。

だけど、当日フタを開けてみて驚いた。
何も準備されていないじゃないか。。。
グダグダに進んでいく研修。でも、研修は朝8時から夜9時まで続く。

夜まで研修をやるのはケニアの治安の悪さのせいだという。
夜に自由時間を与えるとみな遊びにでかけてしまい犯罪に巻き込まれる可能性が高くなる。
だから夜までみっちり研修をしろと言うJICAの方針だ。

俺はこれに怒りを感じた。

「9時だろうが12時だろうが遊びたいやつは何時でも遊びに行く。
隊員やカウンターパートを子ども扱いしているJICAの態度が気にいらない。
治安が悪いのは事実だとしてもケニアの良さを全くアピールできないのであれば
ケニアで広域研修をやる意味など全くないじゃないか。」

だけど、準備段階に参与していない自分が口を出すべきでないと思い、胸にしまっておいた。

でも、この研修の内容で夜9時までというのはあまりにもひどい。
俺が文句をいわなくてもいずれ参加者の不満が爆発することだろうと思った。
それにケニアの評判、日本人の評判が下がることも耐えられなかった。


そこで、緊急ミーティング。
「準備期間がないのはもう仕方がない。問題はやるかやらないかだ。
やらないんだったら、もう研修は夕方で切り上げよう。休日も設定しよう。
やるなら、徹夜してでもちゃんとやろうじゃないか。」

ということで、ほぼ毎日徹夜となったわけです。

みんなほんと良く頑張った。
日本人だけならとにかく頑張れば形につながる。だから、頑張れる。
でも、今回はアフリカ人もうまく巻き込めたと思う。
久しぶりに日本で仕事をしていた時のような感覚を味わった。

"正論が通じる世界"

「これがこうだから、あんたは間違ってる。だからこうしなさい」
と正面向かって言える。

そしてそのことで人間関係に亀裂が入ることのない世界。
それを気持ちいいとも感じたし、楽だなとも感じた。

正論が通じる世界は楽だ。
全てが同じ土俵に立っている世界。
公平なルールとスタート位置の同じ平等なポジションがあってこそ正論が通じる。

そういう世界のなかで俺は強さを発揮する。
ビジネスマンに向いているのかなって思った。
でも、世界のほとんどがそんな世界ではないということにもケニアでの生活で気づいた。
自分が強いのは狭い狭い井戸の中でだけだってことに気づいた今だからこそ、
その強さに虚しさも感じた。

「もう少し、正論の通じない世界で己を磨く必要がある」

そんなことを感じた広域研修でした。








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2006-10-06

活動レポートその4 "交渉そして道開く"編

配属変更で一番難しいとされているのが配属先からのリリースレターの入手。

配属先から見れば俺が何をしていようが、何もしてなかろうがJICAの人間がいることの
意味は大きい。



「いつかJICAからお金がもらえるかも。。」という期待があるだろうし、
何もしていなくても彼らは損をすることはないのだから。

そこで、JICAスタッフとも良く相談して理論武装を固めていざ保健局長とミーティング。

J:JICA
P:PMO(保健局長)
K:KOJI

J「今、コージの技術が欲しいという機関がたくさんある。彼の技術は他の場所の方
が有効に活用されると我々は判断しました。そこで彼をリリースして欲しい。」

P「私にだってコージにやってもらいたいことたくさんあるんだ。」

K「何をしてもらいたいんですか?ここに仕事はないですよ。」

P「そんなことはない。お前はすでにいろいろな仕事をしてくれてるじゃないか」

K「私はあんなことをするためにわざわざ日本から来たわけじゃない。
私は無料で働くエンジニアではないんだ。私の技術をケニア人に伝えたいんだ。
ここには私の技術を引き継ぐ人がいないじゃないですか。」

P「じゃ、お前には何ができるんだ?」

K「逆に、あんたは俺に何を期待しているんだ。」

・・・

P「よし。こうしよう。1週間後にもう一度話し合おうじゃないか。
私はお前に期待することをレポートする。お前は自分のやりたいことをレポートしなさい。
もし、折り合うところがあったらその活動に予算を付ける。
折り合うところがなかったら私はお前をリリースする。」

K「そうしましょう。」


話はここで少し遡る

俺が配属変更について動き出していたころにその男は我々のオフィスにやってきた。
彼の名前はワイナイナ。彼はカレッジに行っていたため2年休職していた。

彼と話をしているとどうも他の二人(ケルーニョ、キプトーン)とは違うようだ。
まずやさしい。嘘をつかない。つまり、いい人である。
そして、コンピューターにたいして関心がある。知識もそれなりにある。

俺が配属変更を検討していると伝えると彼は
「私にはコージに教えてもらいたいことがたくさんあるんだ。どうか行かないでくれ。」
と真剣な眼差しで言われた。

彼はこのオフィスでは一番下級にあたり権力も弱い。
権力が全ての役所では彼と二人で仕事を進めていくことは難しい。
そこで俺はPMOにこんな内容のレポートを提出した。

"ワイナイナをITアドミニストレーターとして正式に任命し、私のカウンターパートに
設定すること"

権力が全ての役所であるからこそより強い権力のPMOから正式な辞令をもらうことが
必要と判断したからだ。
そして、PMOはそれを認めてくれた。

そうして、私はワイナイナと共にこの配属先でやっていくこととなったのです。














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2006-10-05

活動レポートその3 "配属変更だって楽じゃないんだよ"編

俺の残る任期は14カ月。
配属変更がスムーズに行ったとしてもその処理に1カ月はかかるだろう。
それに加えて引越しが発生したら家を探すのにまた1カ月はかかる。



生活に慣れるのに1カ月はかかる。
きちんとした活動をするとなれば最低でも1年は欲しいところ。
それを考えると、もたもたしている時間はない。。。

わかって欲しいのはどんな状況であっても配属変更は嬉しいことではないということ。

仕事は無くとも、保健局の人は俺に良くしてくれた。
それを何もしないままサヨナラするのは悲しい。何か恩返しがしたい。。。

本当に仕事が無いの?自分の力不足なだけなんじゃないの?
配属変更とかいってただ逃げてるだけじゃないの???

配属先が変わったからといってそこに仕事が用意されているとは限らない。
同じことに繰返しになるかも知れない。。。

JICAも配属先も役所。ほっといたらいつまでたっても配属変更の処理は進まずに
時間だけが過ぎていくだろう。。。

これ以上時間を無駄にしたくない。
二度とあんな辛い思いはしたくない。
・・・

そんな思いから俺は配属変更にあたって自分ができる限りのことをやってみた。

まず、次の配属先は自分で探そうと思った。そしてできることなら引越しの不要な
同じ街Nakuruで。

ナクルの図書館にインフォメーションセンターが設置されることになり、
そのコンピュータをメンテナンスする技術が必要という情報を入手した。
早速その図書館に行って図書館長と話をした。

その図書館は休みの日ともなると学生や子どもたちで満員となりみな真剣に勉強している。
その子どもたちに環境の重要さを訴えるインフォメーションセンターを設置するとのこと。
コンピュータには環境にまつわるデータベースやGISがあって自由に閲覧できるようになるらしい。
そこで図書館スタッフおよび学生相手の技術指導を行なえる人材が必要とのこと。
また、図書館では定期的に独自のイベントを開催しておりHIV/AIDSの啓発稼働なども
盛んであるという。

ここで働きたい。と思った。
ここならいろんな可能性がある。と思った。
役所のおっさんより、未来のある学生と仕事がしたい。と思った。

そこで、あとは手続きを進めるのみ。
まずは、JICAを説得することから始めないといけない。
担当調整員の了承はすぐに得られた。
でも彼だけでは話にならない。彼を信用していないわけではないが彼がその他の
JICAスタッフに説明するための資料を自分で作成した。

次は図書館からのリクエストレター。
図書館長は「すぐ書くよ」なんて言ってるけどなかなか書いてくれない。
プリンターがなかったり、ビジネス文書が苦手だったり、たんなるもの忘れだったりで
時間が無駄に過ぎていくので自分で作成して図書館長からサインをもらってJICAに提出
した。

ここまではトントン拍子で進んでいった。
このままいったらあと1カ月で図書館で働くことになるかもしれない。
だけど、そう簡単には行きません。ここは途上国ですからね。





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2006-10-04

活動レポート その2 "挫折そして決断"編

ここに全てを書くことはできないけれど、10ヶ月間とにかくやることがなくて、
やることをずっと探していて、ずっと耐えてきてた。

やれることがゼロであったとは言わない。


でも、それが彼らのためになるか?
それが自分のためになるか?
ということを常に考えていた。

頭を下げて、これをやらせて下さいという援助なんてあり得ないと思っている。
相手に頭を下げてもらいたいなんて思いは全くないけれど、
誰のためにもならないようなことをイヤイヤやるくらいなら日本でやりたくない仕事を
イヤイヤやってその給料を寄付した方がよっぽどいい。

だから、ヤミクモに手を付けたくなかった。
それが周りには「あいつ、何しに来たの?」と思われることが苦しかった。
ケニア人にも日本人にも「あいつは座ってるだけだ」、「難しいこと言わずに
何でもいいからやればいいのに」という声が聞こえてくるようで苦しかった。

俺だっていろいろと試してきた。
でも、何もかもうまくいかなかった。
日本に帰りたいなんて思ったことはないけど、
“何やってんだろ、俺”って感じの日々を過ごしてた。

配属変更という選択肢は常に考えてた。だけど、それは“逃げ”のような気がしてた。
最初から全てうまく行くことなんてないだろうし、辛抱強くできることを探すことが
大切なんだと信じてた。

そんな時、とても悲しくて悔しい事がおきた。
俺のやろうとすることにまったく関心をもってくれない同僚たちだったけど、
そのときはようやく関心を持ち始めてくれた時期だった。
だけど、ある同僚に裏切られて手に入れた予算がどこかに消えて

“コージは結局何もできないんだ”

という同僚からの冷たい視線だけが残った。


「もう、ここで俺がやることはないよ。。」

そして俺は配属変更をJICAに申請したのである。






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2006-10-03

活動レポートその1 "期待は打ち砕かれる"編

今まで州の保健局で10カ月ほど活動してきた。
活動のことはmixiにもほとんど書いてこなかったから知らない人がほとんどだと思う。
それは書けばきっと愚痴になるだろうから控えてきた。

でも、今なら書ける。



といういことで簡単に今までの活動レポートです。

俺は保健局職員にコンピューター(特にLANの有効活用および管理)の指導を
求められてケニアに呼ばれた。
正直いって文学部出身(卒論のテーマは「日本の伝統的子供観と水子供養における考察」)
の俺だからITの知識に自信はないのだけれど、
日本で4年間IT企業でそれなりに揉まれてきたし、やる気はあった。

ケニアでイッチョやっちゃろかー!って勢いでケニアにやってきたわけです。

でも、配属先に行ってみたら保健局長(当時)に「ボランティアなんて呼んでないよ」って言われた。
JICAは「心配しないで。彼はそういうこと言う人で評判だから。」と言う。
その時は俺もケニアに来たばっかりでよくわかってなかったから素直にJICAの言うことを
信じたけど今は確信してる。

"ありゃJICAの手続きミスだ"

俺の前任者は確かに後任を申請した。JICAもそれを認めた。
でも、配属先はそれを認めなかった。

この職場にコンピュータエンジニアは不要と判断したからだ。

だけどJICAは後任要請を取り消さなかった。いや、取り消し忘れたと言うべきだろう。

ちなみに俺の同期にはケニアに来たら自分の配属先にすでにボランティアがいたという隊員がいる。
つまり、JICAが二重に要請してしまったのだ。

JICAのお粗末さをここで嘆くつもりはないが、とにかく俺の要請はそんなものだった。

職場に行ってもまず人がいない。
いるのは庶務とか、掃除係とかだけ。(いい人ばっかだけど)
同僚は州保健局員としての任務である県保健局の監視業務でたいていはオフィスにいないのだ。
(でも、実際はほとんどがサボり)

俺のオフィスHealth Record セクターにはケルーニョとキプトーンという二人の同僚がいる。
ケルーニョは俺に「神に誓って酒は辞めた」と言っていたが相変わらず酒臭い。
そして「外回りしてくる」と言って盛り場に消えて行く。
キプトーンはWORDやEXCELは使いこなせる。だから自分に相当自信があるようで扱いにくい。
そして、権力あるものには絶対で下のものには横柄。つまり気持ちいい人ではない。

来た当初俺は職場のLANが全く使われていないのを不思議に思いキプトーンに尋ねると

「壊れてるんだ。金がなくて直せないんだ。だから金をくれ。」と言われた。

でも、見てみると全然壊れていない。
よくよく聞いてみると誰も使い方を知らないだけのようだ。

それでキプトーンにLANの使い方を教えようとすると必ず

「ちょっと人に会ってくる。後はコージがやってくれ。」

と言って出てってしまう。
自分がコンピュータを知らないと言うことを認めるのが嫌なのだろう。

そしてそもそもWORD,EXCELを知っているからというだけの人間にLANの管理を
任せようというのに無理がある。

俺に言わせればそれは

「車の運転ができるんなら車の修理もできるだろう」

という考えだ。
個人的にはコンピュータの管理はアウトソースすべきだと思ってる。
ケニアにも優秀なエンジニアはたくさんいる。ただ役所にはいないだけ。

でも、それって日本も同じでしょ?


そんな状況で俺はほとんどの時間を誰もいないオフィスで時間を潰していた。
でも、何かやれることはあるだろうっと思ってたから職場に行かなかったことはない。
(休むときは必ず連絡して休んだって意味ね)

ちなみに勤務時間は朝8:00から17:00まで。昼休みは1時間。
つらく孤独な9時間だった。それを10ヶ月続けたんだ。。




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2005-11-29

埃巻き立つ土地から


これから2年間ここケニアで生きていくことになりました。
マサイ語で"埃巻き立つ土地"という意味を持つNakuruというところに住んでます。

Riftvalley Provincial Medical Officeでコンピュータエンジニアとして働いています。

いわゆる青年海外協力隊と呼ばれるあれです。

ケニアのこと、アフリカのこと、援助のこと、そして自分の活動のことなど

自分自身が感じたことや思ったことなどを書きつらねていきます。

すごーく昔の日記であっても構わないのでコメントKaribu sana(大歓迎)です。

ちなみに最初の1年くらいの日記はmixiに書いてあるので興味のある人は

こちらもどうぞ。




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